はじめての口づけ
第一条
このブログは、読者のスキマ時間により生じた暇、手持ち無沙汰又は怠惰による喪失感等に対して、当該読者の余暇の教養と退屈を和らげるためにブログという媒体を通してユーモアを提供することにより、大胆かつ繊細に読者の笑いと精神の安定の向上に寄与することを目的とする。
第一条二項
書き手は、読者の笑いと精神の安定に寄与するため、常に自分の精神をごきげんに保つよう努めなければならない。
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こんばんは。
入國 七帆子でございます。
結婚相談所の話を書いたとこから一転。
しばらくは、お題に沿って書こうと思う。思いもよらない、ただの単語でしかない言葉に肉付けしていく力が必要かなと思う。また、最近そういうことに向き合っていなかったため、ここは大いにこの場所を使って表現のリハビリに図りたいと思う。
本日のお題「コーヒー」。
わたしがはじめてコーヒーを口にしたのはいつ頃だっただろうか。
記憶にはないのだけれど、小学生の頃までは、飲むことは許されていなかった。子どものときは、食べたらいけない・飲んではいけないものが多かった我が家。コーヒーもどういった理由で禁止されていたのかわからないが、我が家では「子どもが飲んではいけない飲み物」として、コーヒーは位置づけられていた。
大学のときには、既にコーヒーは毎日飲むものだった。レポートや小説、詩を考えるときに、コーヒーはなくてはならないものだった。パソコンの前にコーヒーを置き、音楽を聴きながら言葉を生み出す。それが酒に変わることはあったが、コーヒーはわたしにとって今もなくてはならないもの。
今も、毎日コーヒーを口にしている。一日一杯の日もあれば、朝とお昼の二杯飲むこともある。
わたしは味音痴なため、コーヒーの豆の種類や濃さにはあまり興味がない。自分にとって心地好いコーヒーかどうかの判断があるだけで、豆やどれだけの深さかどうかは正直あまり興味がないのである。(大事なことなので繰り返した)
それでもコーヒーを欲するのは何故なのだろう。
毎日口に運ばないと、落ち着かないほどに。それを依存という言葉で片付けることは浅はかなことだと思う。
理由として考えられることのひとつは、気持ちの切り替えという意味合いがあること。わたしは、ホットコーヒーしか飲まない。熱い飲み物は、冷たい飲み物のように一気に飲み込むことはできない。だから自然と口に運ぶ速度もゆっくりとなる。気をつけて飲むからだと思う。その、気をつけて飲む行為は、流れを断つ行為だと思う。
流れというのは、ぐるぐるとどうしようもないことを考えてしまうこと。言語化してしまう行動だと、おそらく完全に断ち切ることはできない。けれども、熱いものを口に運ぶ→気をつけて口に運ばなければやけどしてしまう→気をつけるために意識を集中、という行為は、言語とは違う認識だと思う。そのため、言語化された悩みの流れは、一旦裁ち切ることができているのだとわたしは思う。
気持ちの切り替えという意味合いで、わたしは、喫茶店に通っていたこともある。コーヒーがいちばんその店のメニューで安かったから、というのも理由であるけれども、メニューを見ること自体億劫で、とりあえずコーヒーはあるだろうと思い、伝えるときもある。
今も、コーヒーを買いに行くという口実で、居づらい空気から逃げるために使うこともよくある。
コーヒー自体の存在に救われることもあるし、コーヒーを口実に逃げることもできる。
わたしは、コーヒーの味は、悲しいくらいわからない。けれど、コーヒーがなければ生きていけないし、コーヒーのおかげで生きにくい人間社会を命からがらであっても生きていける。
また、和菓子にも合うのでね。
隣人より大事な存在。
入國 七帆子