『 立ち話もなんなので 』

少しだけ占いと労働相談ができる社労士のたまご。言葉と思考の森によく隠れてつぶやいています。

言葉の力

第一条


このブログは、読者のスキマ時間により生じた暇、手持ち無沙汰又は怠惰による喪失感等に対して、当該読者の余暇の教養と退屈を和らげるためにブログという媒体を通してユーモアを提供することにより、大胆かつ繊細に読者の笑いと精神の安定の向上に寄与することを目的とする。

 

第一条二項

 

書き手は、読者の笑いと精神の安定に寄与するため、常に自分の精神をごきげんに保つよう努めなければならない。

 

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こんばんは。

入國 七帆子でございます。

 

今年の目標や抱負を未だ書けていないのだけれども、ちょうど昨日が満月だったため、これを機会にこの連休中には書き上げたいと思う。

 

今の彼とこのまま順調にいけば結婚できるだろうとは思うものの、婚姻届を役所に提出するその日まで、いつでも破談になる可能性がある。彼氏ができた、婚約した、はい、婚活終了とはならないということは、もう何度かのお付き合いで理解している。

 

けれども、婚活の方法はやはり彼がいる場合といない場合ではアプローチは異なると思う。

 

わたしは、恋人がいないときに婚活をしていたとき、よくある婚活ブログのように婚活ブログを書いていた。もう抹消してしまったけれど、恋人がいたときもブログの記事として書いていた。

 

あるとき、わたしは婚活ブログを書くことを止めた。

 

というのも、疑問に思ったのである。

 

わたしは、婚活ブロガーになりたいのか?結婚したいんじゃないのか?ただ一人の人を見つけたいから婚活したいんでしょう?

 

ネタになると言っては申し訳ないが、ネタになる人とお会いした時のブログは、反響もよかった。人の不幸はなんといっても蜜の味。しあわせなラブラブ日記より、いいねの数も多い。書き手としては、やはりいいねをもらって嬉しくない人はあまりいないと思う。

 

けれど、婚活ブログを書き続けることで、わたしは自分に合った人を探しているのではなくて、しぜんと、ブログでネタになりそうな人を探しているのではないのかと思うようになった。自分ではそんなつもりはなくても、ネタになりそうな人を引き寄せているのではないのだろうか。

 

 

わたしの本来の目的は、結婚すること。

 

婚活ブロガーを否定するわけではない。でも、わたしは婚活ブロガーとして生計を立てたいわけでも名を挙げたいわけでもない。

 

たった一人の運命の人に出会いたい。

 

 

そう思い、書くのを止めて、わたしはその記事をすべて抹消した。

 

今でも婚活ブログを読むことはあるけれど、その人たちが婚活ブログを止めたら、もしかしたら結婚に繋がる出会いがふっと手に入るのかなと思う。

 

あくまでも私見です。

 

 

ここまで読んで下さりありがとうございます。

 

ごきげんよう

 

入國 七帆子

 

 

 

オトナとは

今週のお題「二十歳」

 

第一条


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第一条二項

 

書き手は、読者の笑いと精神の安定に寄与するため、常に自分の精神をごきげんに保つよう努めなければならない。

 

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こんばんは。

入國七帆子でございます。

 

20歳となり、成人となったからといっておめでとうございますということになんとなく違和感を覚えてしまうのだけれども。その違和感の原因を、まだ言語化するところまで探訪できていない。

 

大人って、そもそもなんなのだろうか。

 

わたし自身、思い描いた大人を生きている自覚はまったくない。けれども、周りの大人たちを見ていると、この人こそが大人の模範となる人ですと言えるべき人はそんなにいないということにも最近気づき始めている。

 

そもそも、大人とはなんなのだろうか。

 

大人という言葉に、聖人君子や超越した存在を勝手に付け加えてしまっているだけのように思えてならない。

 

大人とは、人間という一括りの一つの区分に過ぎないのだと思う。子どもであるか、大人であるか。幼児、少年、青年、中年、中高年等々、本来は年齢別の区分に過ぎないものに、いつの間にか妄想に近い想像を肉付けしてしまっただけのように思う。

 

 

と書いて終わるだけでは、ただの右斜め上から見たひねくれた30代となってしまうので、つらつらと文章を少しだけ書き散らしていこうと思う。

 

わたしは、子どもの頃から早く大人になりたかった。「子どもだから」というだけで、わたしの言葉が届かなかったことがずっともどかしかったからだった。同じことを言っているのに、わたしが発言すると誰の心にも届かないような気持ちに陥った10代。

だから、わたしはインターネットで発言することがフラストレーションの発散法となっていたのだと思う。インターネットという場は、わたしの容姿も年齢も性別もあまり関係がなく、フラットに見てもらえることが現実世界より多かったから。

 

成人式を終えてすぐ、わたしは20歳を迎えた。

 

20歳を一年、二年・・・五年を過ぎても、状況はあまり変わらなかった。わたしの言葉が誰の心にも届かないような虚しさは、子どもから大人へ区分変更されても、変わることはなかった。

 

わたしは、日本でしか仕事をしたことがないため比較することはできないが、社会人全体から見て20代は大人ではあるけれど、まだまだ若者扱いなのである。それに、やはり人によっては、同じ発言をしても、男性よりも女性の方が軽んじられる傾向にある。

 

 

何を言うかではない。

 

誰が言うか。

 

20代でようやく理解したことだった。

 

30代に入って数年経った今も、ずっとこの問いにどうすればわたし自身解決できるのだろうか考え続けている。

 

社会人の中でもまだ、若い方ではあるけれど、ある程度の社会経験のある若者という認識はしてもらえるようになった。20代よりは少しだけ、わたしの言葉に耳を傾けてくれる人もできた。また、社会保険労務士に合格したということで、曲がりなりにも労働法と社会保険には少しばかり詳しいかもしれないということで、より言葉は届くようになった。

 

年をとるだけで解決できることもあるかもしれない。

けれど、マイノリティをマイノリティのまま放っておくのは、どうしても負けず嫌いのわたしにはできない。

 

わたしが男性であれば、中年であれば、もっと多くの人が耳を傾けてくれるのだろうか。

 

いや、そうではないだろう。

 

どうすれば、何をいうかではなく、誰が言うかの特定の”誰か”になることができるのだろうか。考えて実践し続けてこそ、その年齢に達したときに一気に力を発揮することができる。

 

男性というマジョリティな存在はとても羨ましいけれど、ないならないで、対策していくしかないよな、とようやく思えた30代ライフを歩んでいる。

 

20代は、社会の歯車として生きていく準備期間のようなものだと思う。

 

 

まだまだ制限をかけず、自身の好奇心と探究心を存分にフル回転してこれからの10年を歩んでください。

 

 

ここまで読んで下さりありがとうございます。

 

ごきげんよう

 

 

入國 七帆子

 

 

 

七草粥

第一条


このブログは、読者のスキマ時間により生じた暇、手持ち無沙汰又は怠惰による喪失感等に対して、当該読者の余暇の教養と退屈を和らげるためにブログという媒体を通してユーモアを提供することにより、大胆かつ繊細に読者の笑いと精神の安定の向上に寄与することを目的とする。

 

第一条二項

 

書き手は、読者の笑いと精神の安定に寄与するため、常に自分の精神をごきげんに保つよう努めなければならない。

 

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こんばんは、入國七帆子でございます。

 

昨日は七草粥をいただく日。

一年の無病息災を願い、本来なら朝に食べるものだそうなのだけれど、デトックスが体中で猛威を奮っていたため、夜にいただきました。

 

彼がわたしの家にきてくれて、前日に購入した七草粥セットを使い、作ってくれた。

しんどいとき。

隣にいてくれるだけでどうしてあんなに心が落ち着くのだろう。

仕事が終わってすぐ、彼がわたしの家にかけつけてくれ、心底ほっとした。

 

冷えた両手は、わたしの顔をやさしく包む。わたしの顔を、目を細めて見つめる彼を見るだけで、不安定だった心が定まる気持ちを覚えた。

 

 

結婚の誓いで、健やかなるときも、病める時もというフレーズを思い出した。

 

健やかなる時に楽しく過ごすことは、ある程度年齢を重ねればだいたいこなすことができる。けれども、病める時も、苦しい時も、共に乗り越えていくことは、なかなかできることではないと四半世紀以上生きた実感。

 

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来年は、朝に彼と一緒に食べたいな。

 

 

ここまで読んでくださりありがとうございます。

 

ごきげんよう

 

 

入國 七帆子

 

 

 

 

お話できる過去があるというしあわせ

第一条


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第一条二項

 

書き手は、読者の笑いと精神の安定に寄与するため、常に自分の精神をごきげんに保つよう努めなければならない。

 

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お題「わたしの黒歴史」

 

こんばんは。入國七帆子でございます。

 

あなたは、結婚式を挙げたいですか?

 

わたしは、ウェディングドレスを着て写真だけは撮りたいな、と以前は思っていたのだけれども、結婚式でお金が飛ぶのはなんだか馬鹿らしいじゃないかと思っていて、結婚式はしたくないと思っていた。披露宴だなんて、ただの公開処刑でしかない。

 

とあるSNSで、七五三の写真を見かけた。

その女性は、どうやらその写真で式を挙げたらしい。挙式を行った神社で、毎年家族で初詣にいき、お宮参りや七五三も同じ神社で行う・・・ふたりだけではなくて、家族のライフイベントに神社がある、というようなことを書かれていた。

その書き込みに憧れて、わたしも結婚式だけは挙げたいと思うようになった。もちろん、神前婚。いいと思ったらすぐ取り入れる柔軟性といえば聞こえは良いが、単純に影響されやすいだけだと思う。

 

彼に、結婚式はしたいかどうか聞いてみた。

 

友人たちの結婚式を見て憧れる・・・けれど、あまり大きなものはしたくないとのことだった。そこから結婚式の準備はこれしてあれして・・・という話になっていった。

 

その一つが、ふたりの出会いまでのそれぞれのあゆみを映し出した映像制作。

 

 

元々根が暗い性格なのと友人がかなり少なく、それも大人になってからできた友人ばかり。学生時代の知り合いに、友人と呼べる存在は皆無であるわたし。家族仲でさえ良好とはいえない。

 

そんなわたしの過去が流れ出ようものなら、本当に公開処刑でしかない。

しあわせの絶頂であるはずの場は、たちまち処刑場と化すだろうと思う。

それなら、波乱万丈番組で出演する方がまだ良い。そもそも、自分の過去という限りある材源を切り売りする気はないが・・・。

 

もっと、学生時代に勉強をしておけばよかったという後悔はあまりない。けれど、もっと人に話せるような明るいエピソードをいくつか用意しておくべきだったとは思う。

 

 

ここまで読んで下さりありがとうございました。

 

ごきげんよう

 

入國 七帆子

 

 

 

抱負

第一条


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第一条二項

 

書き手は、読者の笑いと精神の安定に寄与するため、常に自分の精神をごきげんに保つよう努めなければならない。

 

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今週のお題「2020年の抱負」

 

こんばんは、入國七帆子でございます。

 

2019年はさぼりがちだったのだが、年末からGoogleKeepの使用を再開。しなければいけないことなのに、つい忘れてしまうことが2019年は少なくなかった。気づいたときにはもう夕方で、フラグを回収しようものならスーパーマンにでもならないとこなせない・・・とうなだれて、先送りグセがついてしまった。

元々先送りグセが強いのだけれど、GoogleKeepにどんな予定もチェックリストに書くと、先送りグセが軽減されたように思う。こなさなければならないタスクが、打ち消し線でこなせたことを量として確認できることが、小さな達成感につながるからだと思う。わたしの場合。

 

年末から再開したGoogleKeepによって、先送りグセを少し軽減はできているのだけれども、2020年の抱負は打ち消されないでいる。

毎日のすることリストに名前は連ねるものの、最優先ではないため、まあ、余裕があったらこなせばいっか的な位置なのだと思う。12月30日から本日まで、「抱負を書く」だけが寂しく続いていく。

12月30日と12月31日は「来年の抱負」と書かれてあったのに、来年がやってきてしまった。

 

さて、今年の抱負なのだけれども、まださっぱり思いついていない。山羊座木星期なので、なんらかの資格や仕事の勉強は始めたいとは思っているのだけれども。具体的なものはまだ、考え中。

 

健康、家庭、経済、仕事、社会、人格、学習、余暇の8種類に、人生において大切なことは分類できるらしい。

毎年しているのだけれど、分類別に抱負を書いている。5年近くこのスタイルで抱負を書くようにしている。書き始めたときは、余暇への抱負はてんこ盛りだったのだが、家庭や社会についての抱負はほとんど思いつかなかった。社会と自分との接点を今ほど明確に実感していなくて、家庭においても、自ら作った家庭ではなく作られた家庭にいたので実感が薄かったからだと思う。

 

抱負は、その人の取り巻く環境やそのときに大切にしている価値観をあらわすものなのかもしれない。

昨年のわたしと今年のわたしはあまり変化はないのだけれど、5年前のわたしと今のわたしは、いろんなことが違うように思う。「社会の歯車として何ができるか」だなんて、5年前は考えたことがなかったもの。

今も自分の人生は自分が主人公という意識は変わらない。けれど、自分だけの力で生きているわけではくて、関わってくれている人が助けてくれているからこそ、ここまで生きることができるのだと思えるようになった。わたしの力なんて、ほとんどないようなものだと思う。5年前は、やっぱりまだ「わたしが、わたしが」という意識は強かったと思う。

 

変わらないのは、痩せるという年の初め限定の心意気のみなのかなと思う。痩せるどころか、順調に成長している。今年こそはと、毎年思って抱負に認めるのだけれど。

 

あなたは、今年どんな抱負を手にして歩いていきますか?

 

 

ここまで読んで下さりありがとうございます。

 

ごきげんよう

 

 

入國 七帆子

ヒトリノショウガツ

第一条


このブログは、読者のスキマ時間により生じた暇、手持ち無沙汰又は怠惰による喪失感等に対して、当該読者の余暇の教養と退屈を和らげるためにブログという媒体を通してユーモアを提供することにより、大胆かつ繊細に読者の笑いと精神の安定の向上に寄与することを目的とする。

 

第一条二項

 

書き手は、読者の笑いと精神の安定に寄与するため、常に自分の精神をごきげんに保つよう努めなければならない。

 

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こんばんは、入國七帆子でございます。

昨日までは、昨年から頼まれていたことをなんとか無事に完成しまして、依頼主にお届けするという業務ではないけれど趣味に興じていました。おせちを食べながらも、コーヒーと本を片手にパソコンでカタカタ文章を打つという、正月ともいえない、日常とも言い切れない一日だった。

 

実家には帰らないと決めていたため、年末年始はひとりで過ごしていたし、おせちもお雑煮も一人で食べていた。

 

一人暮らし経験は何度かあったものの、実家や誰とも言葉を交わさない年末年始というものを過ごしたのは今回がはじめてかもしれない。彼とは本日、2日ぶりに言葉を交わす予定なのだが、今年はじめて口を開くのも本日からとなる。だって、誰とも会わなかったんだもの。なお、独り言はカウントしない。

 

実家では、わたしも含めて母以外の家族が食べ物の好き嫌いが多かった。そのため、小さい頃からおせちらしいおせちを口にせず育った。家を出たときから年末年始どころかしばらく家族とは会わないつもりだったため、秋が始まる前に楽天市場でおせちを購入した。

 

おせちは、特別おいしいものではない。けれど季節の行事を通して自国の風習を感じる時間は、とても楽しい。

おせち料理は、本来は神様への供える料理としての意味なのだとか。大晦日のうちにすべて重箱に詰めて、年神様にお供えし、一年間良い年になりますようにという願いを込めるものなのだそう。そして、新年が明けてからそのお下がりを家族でいただく。

 

また、お料理それぞれに意味があるのも面白い。

 

黒豆は、まめまめしく働くことができるように、という意味なのかなと駄洒落のように考えていたのだけれど、Oisixおせち料理について書かれてあるサイトによると、「邪気祓いと黒く日焼けするほど勤勉に働けるように」という意味があるらしい。豆だからまめまめしく、だなんて発想のわたしがなんだかとてもアホみたいで恥ずかしくなった。

 

余談だけれど、今年の12月19日までは、成長と拡大の星である木星山羊座に位置している。山羊座のテーマは、まさに、この黒豆のように、地道に、コツコツと、勤勉を意味しているので、是非とも黒豆を盛り盛り食べて良い一年にしたいところである。

何をしても続かない!という人や、今年こそはやり遂げたい!という方は、力が高まっている山羊座の力に乗っかってみて過ごすのもよいかもしれない。

 

手綱こんにゃくの意味がとてもかっこよかった。

手綱を締めるのと同じように己の心を引き締め、自分自身を厳しく律し、来る戦いに備えて心を養うという意味があるらしい(どこで見かけたのか失念)。また、結ぶところから、良縁という意味もあるらしい。

 

おせちだけでなく、日常でも手綱こんにゃくを定期的に口にしたいと思う。

 

さて、きちんとしたおせちを口にしたのもほぼはじめてのわたしだったが、お雑煮を作るのもはじめてだった。実家で食べたお雑煮は覚えている。けれども、一度も作ったことがなかった。

お雑煮といっても、プロの料理のように仕上げる必要はないためさほど難しくはないと思うのだが、餅を煮るタイミングだったり入れていた具材の詳細は忘れてしまった。

 

実家にいたころ、家事を手伝ったことはほとんどなかった。というより、させてもらえなかったのが正しいかもしれない。手伝おうとしても、母にいい顔をあまりされなかった。子どもの頃の話である。最後の実家住まいのときも手伝おうとしたが、母と祖母の二大巨頭の前にわたしは入ることができなかった。

 

家族なのに、なんとなくだけれど、わたしと家族は家族になりきれていなかったのかなと思う。

 

その家ならではのルールが、母とわたしの間でぷつんと途絶えていたことに気づいた今年のお正月。

 

家族って、なんだったのかな。

と、自己流のお雑煮を口にし、3個のお餅を食べた。

センチメンタルと食い気は別物なのだろう。

 

ここまで読んで下さりありがとうございました。

 

ごきげんよう

 

入國 七帆子

 

 

 

 

バンジージャンプ

第一条


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第一条二項

 

書き手は、読者の笑いと精神の安定に寄与するため、常に自分の精神をごきげんに保つよう努めなければならない。

 

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あけましておめでとうございます。

入國七帆子でございます。

2020年、こんばんは。

 

さて、昨日の続きなのですが、とりあえず、ワンストップ特例制度とやらを活用すればそんなにふるさと納税は恐れるものではないと理解したところで、わたしは楽天市場のアプリへ指を伸ばした。

 

ふるさと納税には何があるのだろうか、と思いとりあえず検索してみる。

 

なぜかとても干物が欲しい気分だったため(大して魚料理なんて作らないくせに)、はじめは魚や加工品ばかり見ていた。日持ちもしそうだったし、10000円で30枚なんてのもあり、なんてお得・・・!と自身の胃と保管スペースの容量を考えずに探していた。結局、なんかグリルや網がないと調理ができなさそうな予感がしたのと、グリルを買ったところで洗い物がより億劫になりそうな気がした。わたしの干物への好奇心は早々とログアウトした。

 

応援したい街が今のところほとんどないわたしにとって、ふるさと納税をする意味は返礼品と節税対策が大きなメリット。

となると、どんな食べ物が良いだろうか・・・。日常で定期的に利用するもので思い浮かんだのは、まず、お米だった。お米に人差し指がまず伸びた。

 

そして、次にわたしの大好物であるみかん。10kg頼んでいたのだけれど一ヶ月ほどでなくなってしまった。まだ、わたしも日本の冬も終わっていない。終わっていないどころか、折り返し地点にすらなっていない。冬の楽しみの一つであるみかん。みかんのない生活は、蛸を入れ忘れたたこ焼きと同じようなものだと思う。わたしの人差し指は、5kgのみかんを選んだ。

 

あとは、彼と一緒に楽しめるものも良いなと思った。量はそんなに多くはないけれど、いくつかの海鮮丼を楽しめる商品を選んだ。

 

わたしはすべて食料品を選んだのだけれども、ふるさと納税には食料品や形に残るもの以外にも、体験型や旅行、イベントとなったものがあるらしい。

 

実際探してみると、実際に電車を運転できる体験型の返礼品があった。また、バンジージャンプなんてのも北海道のどこかの街の返礼品として記載されていた(楽天市場ではなかったような気がする)。

 

笑いを誘ったのは、こんな返礼品。

 

・シルバー人材センターでスタッフ派遣

・墓掃除

・部屋の掃除

 

・・・

 

人材って、その地域の特産品なのだろうか。

たしかに、地元を離れて遠方に住む人にとっては、墓の掃除をしてくれるサービスはとてもありがたいシステムだとは思う。そう思う。

 

けれども

 

それって、地域の特産品なのだろうか・・・。

 

 

笑いと疑問を誘うふるさと納税だった。

 

今年は早めに行動して、またふるさと納税を楽しみたいと思う。

 

ここまで読んで下さりありがとうございました。

 

ごきげんよう

 

 

入國 七帆子